2025年8月5日、インディープロレス界の重鎮・橋本友彦さんが47歳の若さでこの世を去りました。
長年にわたりインディーシーンを牽引し、選手としてだけでなく団体代表としても活躍した橋本さんの訃報は、多くのファンや関係者に大きな衝撃を与えています。
この記事では、橋本友彦さんの死因や闘病生活の詳細、波乱に満ちた生い立ち 高校や大学学生時代、家族構成、そしてプロレス界で残した功績までを詳しくご紹介します。
橋本友彦の死因は肝臓がんだった
橋本友彦さんの死因は肝臓がんと公式に発表されています。
プロレスリングA-TEAMの公式SNSによると、橋本さんはかねてより病気療養中だったとのこと。
2024年2月に体調不良を感じて病院を受診し、そこで肝臓がんと診断。
以降は治療を受けながらもリングに立ち続ける姿勢を崩さず、6月22日の大会を最後に療養に入っていました。
しかし、2025年5月に再発が確認され、病状は急速に進行。8月5日午前7時55分、家族に見守られながら静かに息を引き取りました。
長年にわたって多くの若手選手を育てた橋本さんの姿を思い出し、SNS上には「最後までリングにしがみついた生き様に涙した」「インディーの魂が消えた」といった追悼の声があふれています。
橋本友彦のプロフィール
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本名:橋本友彦(はしもと・ともひこ)
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リングネーム:同上
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生年月日:1977年8月16日
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没年月日:2025年8月5日(47歳)
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出身地:奈良県奈良市
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身長:183cm
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体重:140kg
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所属団体:プロレスリングA-TEAM
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スポーツ歴:柔道(三段)
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トレーナー:木村浩一郎
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デビュー:2000年4月14日(JPWA・後楽園ホール)
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肩書き:プロレスリングA-TEAM代表
生い立ちと中学・高校時代
橋本友彦さんは奈良県奈良市にて誕生。幼少期から体格が良く、柔道に打ち込む学生生活を送りました。
正確な中学校名や高校名は公表されていませんが、奈良県内の公立校に通っていたとされ、特に柔道部での活躍は当時から有名だったそうです。
その後、進学したのが大東文化大学。同校の柔道部に所属し、後の盟友となる佐藤耕平さんともこの時に出会います。柔道歴は15年に及び、三段の腕前は後のプロレスキャリアに大きな影響を与えました。
プロレスデビューから総合格闘技挑戦までの波乱万丈なキャリア
JPWA・DDT時代
2000年に木村浩一郎氏の主催するJPWA(日本プロ・レスリング協会)でプロデビュー。その後、DDTプロレスリングにも参戦し、徐々にインディー界で存在感を高めていきます。
総合格闘技挑戦
2002年からは総合格闘技(MMA)にも挑戦。
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2002年5月:パンクラスで謙吾と対戦しTKO負け
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2002年7月:PRIDE THE BEST Vol.2でジャイアント落合にKO負け
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2003年12月:INOKI BOM-BA-YE 2003でアリスター・オーフレイムにTKO負け
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2006年9月:アランカラエフと対戦してTKO負け
戦績こそ奮わなかったものの、体重140kg超という規格外の巨体で果敢にチャレンジする姿は、ファンから絶大な支持を集めました。
MAKEHEN・アパッチプロレス軍・A-TEAM設立
2006年頃からは**自主興行「MAKEHEN」**をスタート。フリーランス集団「TEAM MAKEHEN」を設立し、紫雷イオ・紫雷美央姉妹の育成にも関わりました。
その後、アパッチプロレス軍に加入し、2017年には後継団体となるプロレスリングA-TEAMを自ら設立。選手兼代表として団体を運営し、インディー界の発展に尽力してきました。
嫁や子供など家族構成は?
橋本友彦さんの妻や子供に関する情報は公式には発表されていません。
ただし、療養中は「家族に見守られながら亡くなった」と報道されており、妻子がいた可能性が非常に高いと見られています。
また、過去のSNS投稿などからも、家庭を大切にする人物像がうかがえ、選手仲間からも「橋本さんは家族思い」と言われていました。
SNSでも話題になった“人気芸人とのスリーショット”
2025年6月には、ある人気芸人とのスリーショットをSNSに投稿して話題になりました。
病気と闘いながらも、前向きな笑顔を見せていた橋本さんの姿に、多くのファンが勇気づけられたといいます。この時すでに再発を宣告されていたものの、それを感じさせないプロ魂に、改めてリスペクトの声が集まりました。
世間の反応「最後までプロレスに命を懸けた男」
橋本さんの死去を受け、SNSやネット掲示板では次のような声が見られました。
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「こんなに情熱的なレスラーはいなかった」
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「MAKEHENの頃からずっと見てきた。悲しすぎる」
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「紫雷イオを育てた人。間違いなくプロレス界の功労者」
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「まだ47歳…。もっと見たかった」
とくにインディー界における功績と後進育成に対する評価は高く、その存在感の大きさを物語っています。
おわりに
橋本友彦さんは、ただのレスラーではありませんでした。自ら団体を興し、若手を育て、時には自身も戦いながら、プロレスという文化の灯を絶やさぬよう奔走した情熱の人。
彼の死は一つの時代の終わりを意味するかもしれませんが、その志は、彼が育てたレスラーたちの中に確かに息づいています。
謹んでご冥福をお祈り申し上げます。
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